この世でただひとつ誰にでも平等であり、かつ絶対的な存在である「時間」。今回はそんな「時間」の正体について語りたいと思います。
世の中で大切なものの中で、必ずと言っていいほど「お金」や「時間」がランクインしてきますが、じつはこの2つは対照的です。なぜならば、「お金」は不平等ですが、「時間」は平等だからです。金持ちの家庭に生まれた子は「お金」をたくさん持っているし、貧乏な家庭で生まれた子は「お金」に苦しむ生活に迫られます。しかし、どちらの家庭に生まれても「時間」だけは平等です。
1年前までは自分より貧しかった奴が、1年後には自分よりも裕福になっている例はたくさんありそうですが、1年前まで年下だった奴が、1年後には年齢的に追い越すなんてことは絶対にありません。不平等が多いこの世の中において、「時間」だけは万人に平等なのです。こんなに平等でフェアなものは、「時間」以外には存在しません。
時間の正体
では、万人に平等に接してくれる「時間」とはいったい何者なのでしょうか?ぼくは、時間の正体とは、ずばり「命(いのち)」そのものだと考えています。したがって、「時間」と「お金」を比較した場合、比べ物にならないくらい「時間」の方が大切だと考えています。
何歳で死ぬのかは人それぞれなのでなんとも言えませんが、80歳を一つの区切りとした場合、70万時間しか生きることが出来ません。物心がつくまでの時間や、活動の出来ない睡眠時間を削っていくと、実際に活用出来る時間は、40万時間程度ということになります。この40万時間が、あなたが自由に使って良い時間であり、あなたに残された時間でもあり、いのちの正体でもあるのです。現在40歳であれば、残されたいのちの時間は20万時間程度ですね。
遅刻する相手を許しても良いのか?
ぼくは時間にルーズな相手が嫌いです。極力関わりたくありません。なぜならばぼくは、「時間を奪う≒いのちを奪う」だと認識しているからです。大げさに思えるかもしれませんが、歳を重ねる度に強く思うようになってきました。
とはいえ、人間なので失敗はあります。意図せず遅刻してしまうことは誰にでもあります。それを責めるつもりではありません。問題なのは、遅刻したにも関わらず全く意に返さない輩がいます。そういった輩には、遅刻に対する罪の意識がないので、平気で同じことを繰り返します。
頻繁に遅刻する人間とは関わりを持たなくて済むのであれば、関わらないのがベストですが、現実問題そうは行かないと思います。したがって、頻繁に遅刻をする輩にはきちんと釘を刺しておく必要があります。ぼくの場合、例えば定例会議に毎回5分程度遅れる人がいれば、「毎回5分遅れていますが、この時間では都合が悪いのですか?」と聞いてみます。必要であれば、毎回5分開始時間を遅らせても良いかもしれません。ビジネスマンとして時間にルーズではお話になりません。自分自身が時間にルーズになってはいけませんし、それを許してもいけません。顧客が相手でも関係ありません。「時間を守る」という、ビジネスマンとしての最低限のルールは守ってもらう必要があります。ビジネスマンというよりも、人としての最低限のルールです。「命(いのち)は大切にしましょう」と同じレベルの話です。
自分のいのち(時間)を粗末にしていないか?
じつは、このコラムを書いた最大の理由は自分への戒めです。ぼく自身、コロナ禍で在宅ワークが増え、働き方だけではなくプライベート時間のあり方も考えさせられています。「コロナ疲れ」と言ってしまっては、医療従事者の方に申し訳ないのですが、ぼーっと過ごしてしまう時間が増えたり、目的意識もなく動画をサーフィンしている時間が増えている気がしているのです。時間が有限なのは頭の片隅では理解しつつも、無限にあるかのように振る舞っていたなと反省し、自戒の意味を込めてコラムにしました。心当たりのある方はこれを機に、時間の過ごし方について考え直すきっかけになればいいなと思います。
コメント